第2章 震災後に訪れた太陽光ブームの光と影

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、日本のエネルギー政策に大きな衝撃を与えました。原子力発電所の事故と電力不足を経験した社会は、電気の供給源を見直し始めます。震災を契機に再生可能エネルギー、とりわけ太陽光発電が一躍脚光を浴びました。翌2012年には国による固定価格買い取り制度(FIT)が導入され、太陽光で発電した電気を高値で買い取る仕組みがスタートします。震災直後、太造氏も停電した地域の復旧作業に奔走しました。非常用電源の応急設置などに携わる中で、「燃料がなくても電気が作れる太陽光発電」の可能性に改めて思い至ります。 FIT開始当初の買取価格は1kWhあたり42円という破格の水準で、これを追い風に国内では空前の太陽光発電ブームが起こりました。2013~2015年頃には“太陽光バブル”とも揶揄されるほどで、全国の空き地や工場の屋根にソーラーパネルが林立する光景が当たり前になります。茅根電設工業にも「土地を紹介してほしい」「設備を共同で設置しないか」といった相談が相次ぎ、社内でも新規事業として太陽光部門に人員を割き、積極的に案件を受注しました。「再生可能エネルギーには地域の未来を変える可能性がある」――震災後、太造氏は太陽光発電の持つポテンシャルに確かな手応えを感じます


 こうして太陽光関連工事は瞬く間に会社の事業の柱の一つとなり、約10年で数多くの実績を積み重ねていきました。 しかし、急速な拡大の裏で太陽光発電への逆風も生まれ始めます。山林を切り開いたメガソーラーが土砂災害を誘発したり、景観を損ねたりするケースが各地で問題視されるようになったのです。


 本来は脱炭素社会の切り札であるはずの太陽光が、「地域に歪みをもたらし、反対運動にまで発展する事態」に陥っていました。


 例えば茨城県内でも、美しい里山に巨大なパネル群が出現する計画に対し、「黒いパネルの海で故郷の景色が台無しだ」と住民が嘆く声が上がりました。全国各地で太陽光パネルは「黒い森」「黒い山」と揶揄され、再エネへの期待と失望が交錯します。 住民による反対運動や規制の動きも広がりました。実際、メガソーラーを巡る地域トラブルは全国で160件以上に上り、建設を抑制・規制する自治体条例も約130件に急増しました。


 一部では耕作放棄地だった田畑が丸ごとパネルで埋め尽くされ、「農地が失われる」との批判も出ます。農家出身の母を持つ太造氏にとって、地域の農地が失われる光景は他人事ではありませんでした。「このままでは太陽の恵みが地域に嫌われてしまうのではないか」――事業者として太陽光発電を推進しつつも、太造氏はその負の側面に心を痛めるようになります。森林伐採を伴う事例のニュースを見るたび、「どうすれば地域に太陽光発電設備の優位性と素晴らしさを受け入れてもらえるか」と悩み続けました。

そんな折、太造氏はある一筋の光明となるアイデアと出会います。


茅根電設工業地域を見守り続けます。