1章 父の創業と「太陽を造る」名前の宿命
茨城県常陸大宮市。米屋を営む家の三男として生まれた茅根孝三郎は、若い頃から電気の仕事に強い関心を抱いていました。昭和40年代、日本の高度成長期に入り各地で電化が進む中、孝三郎は実家の米屋ではなく電気工事の道へ進むことを決意します。修行先の工事会社で見習いとして汗を流し、着実に技術を身につけた孝三郎は、1973年(昭和48年)についに地元で小さな電気工事店を創業しました。最初は照明の取り付けや配線工事が主でしたが、次第に信頼を勝ち得て仕事が広がり、消防設備や通信・空調設備といった関連分野にも進出。1990年(平成2年)には有限会社として法人化を果たし、従業員も抱えるまでに成長しました。地域の住宅や工場、公共施設まで幅広く手がけ、電気のプロフェッショナル集団として地元インフラを支える存在となっていきます。 孝三郎の妻となったまさ子は農家の出身でした。電気の世界に飛び込んだ孝三郎と、生来農業に親しんできた妻。二人の間に1970年代後半、生まれた長男が茅根太造です。太造という名前には「太陽を造る」という文字が込められており、その名の通り太陽のように大きな存在になれという願いが託されていました
。幼い太造少年にとって、父の仕事場と母の実家の畑はまさに二つの遊び場でした。平日は工事現場で働く父の背中を追い、工具箱を運んだり電線の端材をもらって遊んだりしました。週末や夏休みには祖父母が営む田畑で泥だらけになりながら稲刈りや野菜の収穫を手伝い、農業の厳しさと喜びも肌で感じ取ります。電気と農業――対照的にも見える二つの現場を行き来する中で、太造は「電気が人々の暮らしを明るく照らす姿」と「農業が土地を豊かに育む姿」の両方に価値を見出していきました。 成長した太造氏は地元の工業高校で電気工学を学び、卒業後修行を経て父の会社へ入社します。持ち前のバイタリティで現場経験を積み、やがて孝三郎から正式に事業を引き継ぎました。2代目社長となった太造氏に対し、創業者である父・孝三郎は「技術の向上と質の追求を忘れるな」と口癖のように言い聞かせました
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。また、「電気の仕事は尽きない。この資格は一生モノだ。立派な建物も電気工事士がいなければ機能しないんだ」と、電気工事という仕事の誇りと責任を語り聞かせたといいます
。太造氏はそんな父の背中と教えに学びながら、新しい時代の舵取りに挑んでいくことになります。 社長就任後、茅根電設工業は地域密着の電気工事会社として安定こそしないもののそれなりの業績を保っていました。しかし太造氏の心にはある探究心が芽生えていました。それは「太陽の力を電気に変える」太陽光発電への興味です。幼い頃から自分の名前に込められた“太陽”への縁を感じていた太造氏は、社会人になってからも国内外の再生エネルギー事情に注目していました。2000年代後半、ヨーロッパを中心に再生可能エネルギーへの転換が加速し、日本でも政府が住宅用太陽光発電の余剰電力買取制度を開始するなど、徐々に導入が進み始めます。まだソーラーパネルが高価で一般には馴染みが薄かった当時、太造氏は将来性に賭けて独自に情報収集を行いました。そして2010年頃、会社として初めて太陽光発電設備の設計・施工に取り組みます
自社倉庫の屋根や近隣施設へのパネル設置といった小規模案件でしたが、発電した電気を計測し売電収入を得るという新たなビジネスモデルに手応えを感じました。これは、父から受け継いだ電気工事業に“太陽”という新たな光を取り込む画期的な一歩でした。 ところが、その翌年に発生した未曾有の大災害が、太造氏の運命をさらに大きく動かしていくのです…。